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2008年06月22日
北大形成外科同門会
昨夜、北大形成外科同門会の会議がありました。
同門会というのは、
北大形成外科で修行をした仲間医師の集まりです。
今は、北大形成外科には所属していなくて、
病院勤務や開業をしている医師が
同門会の主要メンバーになります。
OBによる親睦団体というところです。
北大形成外科では、
現在、北大形成外科に在籍している医局員も
教室会員となります。
教授や准教授、講師、助教というスタッフの他に
研修医も教室会員です。
■ ■
北大で研修した仲間の会ですから、
30年近くも、ずっと顔見知りです。
遠い親戚よりも、自分にはずっと身近な存在です。
自分にいろいろなことを教えてくれた、
大切な先輩であり、
自分が手術を教えた、
かわいい後輩も同門会員です。
業界の親睦団体と違うのは、
師弟関係であったり…
よき相談相手であったり…
私に言わせると、
形成外科という、自分にとってかけがいのない
もう一つの‘親兄弟・親戚’以上の関係が同門会です。
■ ■
最近の若い先生は、
卒後に大学病院の医局に入らず、
すぐに市中病院や民間病院で臨床研修をします。
結果的に、大学に残る人が少なくなっています。
確かに、昔から医局制度には問題もありました。
ただ、私にとっては良い制度で
良い時代でした。
採血や点滴すら満足にできなかった私が、
手術ができるようになったのは、
北大形成外科のおかげです。
■ ■
私は、大浦武彦教授が率いる、
北大形成外科へ入局しました。
現在の私があるのは、
大浦武彦先生や北大形成外科の先輩のおかげです。
いつも感謝しています。
札幌医大から北大へ行くことは少し勇気がいりました。
私が北大へ行けたのは、
松本敏明先生、
大岩彰先生という、
お二人の札幌医大の先輩がいらしたからでした。
■ ■
特に大岩彰先生は、
私が札幌医大に入学した時に、
熱心に弓道部へ誘ってくださった先生でした。
大岩先生の、
『私でもやっているんだから大丈夫だょ』
『おいで!』
という一言で、
私は安心して北大形成外科へ来ました。
大岩先生はお忘れになっていると思いますが、
私が北大を訪ねた時に、
生姜焼き定食をごちそうしてくださいました。
■ ■
松本先生は、アクティブで激しい先生です。
レーザーのスペシャリストです。
大岩先生は、穏やかで優しい先生です。
巻き爪という、手術が難しい爪の病気に、
独自の大岩法という、手術法を考案されました。
あまり知られていませんが、
私は今でも素晴らしい手術法だと思っています。
大岩先生は現在は形成外科を離れていらっしゃいますが、
同門会にはいつもいらしてくださいます。
■ ■
同門会の会議で、
最近、医局を離れる先生のことが話題になりました。
全国どこの大学の形成外科でも、
専門医も取らずに、大学を去る先生がいらっしゃいます。
どこへ行くのも、
職業選択の自由という、
日本国憲法が定めた基本的人権です。
形成外科や自分の将来のことを考えてのことです。
私は、北大形成外科は円満退局しましたが、
札幌医大は追い出されました。
■ ■
前にも書いたことがありますが、
48歳にして職を失い、
路頭に迷いました。
子どもにもお金がかかる時期だったので、
本当に困りました。
私は幸いなことに、
中央クリニックの社長さんに拾っていただきました。
中央クリニックも円満に退職させていただき、
札幌美容形成外科を開業できました。
■ ■
私は自分の生き方が正しいとか、
大学を辞めて美容外科医になるのが悪いとか、
言うつもりはまったくありません。
一度しかない人生ですから、
自分の思うように生きるのがいいと思います。
ただ、
私が札幌医大を追い出された時に、
精神的な力になってくれたのが、
北大形成外科の先輩や後輩でした。
■ ■
医師にもたくさんの悩みや苦しみがあります。
悩んだり苦しんだりした時に、
相談できる先輩がいるのは、
本当にありがたいことです。
これは苦しんだ人にしかわかりません。
そんな時に相談できる先輩を持つには、
北大形成外科同門会は最適なところだと思います。
私は、自分が一度、
奈落の底へ落ちて助けてもらったので、
後輩が困っていたら、
できるだけのことをしたいと思っています。
投稿者 sapporobiyou : 2008年06月22日 23:59
コメント
北大形成外科時代、自分にとって人生の師であったのが、北大病院研修医としての先輩、そしてチルク病院での医長の諸先生でした。私は北大の学生であった頃、新冨芳尚先生の「私は医者というよりも職人でありたい。」という講演を聴いて北大形成外科の門をたたいたのを思い出します。もっとも色々な事情で(国試に落第し)入局が半年伸びましたが…
初めて病棟の勤務についた時医長は梅田先生でした。やさしく教えてくれる先輩で、私は頼りにし、尊敬しました。私生活は(ないも同然ですが)井川先生、それと当時韓国から留学に来ていた金柱憲先生に大変お世話になりました。当時たいへん羽振りの良かった、今は問題山積の『ミドリ十字』が毎晩仕事を終えると待ち構えていて『先生、ススキノいきましょ』と誘ってくれて、毎晩飲み明かしたものです。(確か、私、ススキノ連続滞在48日だかの記録を持っているはず…)
翌朝は酒がなかなか抜けぬまま、サウナに入って無理矢理酒を抜き、朝7時30分からの早朝カンファランスに出席です。担当医はその前に資料をそろえねばなりません。こんな生活を毎日…、世間一般では酒池肉林状態と言われそうですが、当事者は必死…。そんな時代をくぐり抜けて来た研修医はそれなりに強くなり、研修病院のちょっとした不備にもめげる事なく怒濤のような毎日を送っていったのです。
そうして、初めての研修病院が旭川厚生病院形成外科。医長はあの沖本先生。お酒の強い豪快な先生で、私の事を北大から来るうわばみと思っていたようで、赴任当日旭川の三六(飲屋街の中心地)に連れて行かれたのを覚えています。こうした、波乱の研修医人生でしたが、臨床医として一番身になったのが函館中央病院と、それに続く釧路労災病院でした。いずれも1次救急の病院で、特に釧路労災病院は北見あたりからも救急を受けるとの事で当時麻酔科だった私の家内が夜中のポケベルに戦々恐々としていたのを覚えています。
大変な時代でしたが、それを乗り越えたからこその今があると、今は本当に思っています。医者は患者さんの顔よりも手術した部位の事をよく覚えていると言われますが、私は釧路労災病院の外来看護婦さん、病棟や手術室の看護婦さんらの顔つきまでよく覚えています。私は今は東京でしがない皮膚科の開業医をしており、形成外科としての挟持はたまにやる手術の時にしか発揮されませんが、今までのやり方をどう変えてやろうかという形成外科的発想だけは捨てないつもりでやっています。先生が奈落の底に落ちた、私も東京に出て来た時に同じような経験をしました。誰も医局と繋がりのない形成外科専門医など雇わない…子ども達も小さく、私の選んだ選択は畑違いの整形外科の「なんちゃって」医者になることでした。その後は自分ひとりでできる開業の道を探るべく、東大の皮膚科に医局員として入局しなおし、月給12万のスタートから徐々に自分の世界を確立して行きました。
長くなってしまいました。とにかく、私は本間先生に教えを受けた釧路での生活がその後の人生に大切なものをいただいた時期であったといつでも思っています。 M.T.
投稿者 M.T. : 2008年06月24日 23:07