2010年05月14日

魂を売る

ある日、テレビを見ていました。

その番組は、認知症が進行した患者は、自分で食事を取ることもできず、次第に、食事に対する意欲も欠き始め、急激に健康状態が悪化する。と言う問題をテーマにしていました。

そういう患者の家族が、こう話していました。
自分の親が、このままこういう状態が続くと、いつ何があるか分からないので、とても心配だ。

一緒にテレビを見ていた人が、こう言いました。
この年の老人で、認知症もあり、体が弱っていれば、いつ何があってもおかしくはない。
この家族は、もうそれなりの年齢なのに、そんな覚悟もできていないことの方が、おかしい。
世の中には、生きたいのに生きられない人や、生活保護ももらえず、食べることも満足にできない子供が、山ほどいるのに、おかしな話だ。

私は、この問題はそんなに簡単ではないのだ、そう思いましたが、次第に、ある出来事が、鮮明に思い出されました。そうだ、そんなに簡単な問題ではないのだ!と。

大学にいた頃、週に一度、山間部の病院にアルバイトに行っていました。
この病院は、以前は外科の病院でしたが、その当時は、人口も減ったこともあり、大きな手術は、地域の基幹病院に全て送っていました。

私の仕事は、手術があれば手術。なければ検査。それもなければ、外来を手伝い、患者が途切れると、病棟の回診をすることでした。

ある日、長期療養病床の回診をしていると、婦長から、院長の指示があると伝えられました。
100歳を越す老人に、IVHを入れろ、と言う指示です。
この老人は、既に何年も前から、意思の疎通はできず、寝たきりで、体中の関節が硬直し、インカ帝国のミイラのような状態でした。
患者の家族も、もう何ヶ月も、誰一人、見舞いにも訪れていませんでした。

私は、このような状態の患者に、リスクのある処置をすることに、いったい何の意味があるのか、そもそも、自ら希望もしていないのに、何の目的で行うのか、全く理解できなかったので、IVHを入れることを断りました。

そして、院長宛に、カルテにこう記して、その日は帰りました。
「どんな生き物も、自分の意思で食事を取ろうとしなくなったときは、その生き物は、死を迎えるときです。この方も、今がまさにそのときです。何もせず、静かに送ってあげたらいかがですか?」

次の週も、婦長は、院長から同じ指示が出ていると伝えてきました。
カルテを見てみると、私から院長宛の記述は、婦長によってきれいに消されていました。
その上に、院長の文字で、
「森多先生、この方に、IVHを入れてください。」
と書かれていました。

婦長に抗議しましたが、婦長は、一点の曇りもない眼で、心に、一抹の矛盾も感じていない口調で、こう言い切りました。

問題は、そんなに単純ではない。

この老人が生きている限り、この老人には、年金が支給される。この老人は、元は学校の校長だったので、その年金はかなりの額だ。
その年金は、今は収入の少ない子供が受け取り、生活の足しにしている。この老人が亡くなり、年金が途絶えると、子供の家族は、とたんに生活に窮することになる。
延命は、家族の希望でもある。

この病院も、以前ほど収入がなくなって来ている。今は、近隣のこういう患者を引き取り、長期療養型病床をいっぱいにして、細々と経営している。大事な収入源である。この老人に、IVHを入れると、薬剤も多く出せるし、一旦は一般病床に移せる、そうすると、この老人の看護の料金が上がり、収入増となる。
こういう事でもしないと、この病院は、もうやってはいけない。
この病院は、この地域には、なくてなならない使命があり、つぶすことは出来ない。

だから、つべこべきれいごとをなれべずに、IVHを入れてください。院長の指示ですから。

私は、この話に、全く理解を示さないわけではないものの、自分の信念を曲げることはできない。そう感じながらも、結局は、IVHを入れざるを得ない状況に追い込まれてしまっていることに気が付きました。

そして、IVHを、入れてしまいました。この老人は、全く何の反応も示さず、麻酔すら、要らなかったのではないかと感じました。

そして、こう、心の中でつぶやきました。

「また、悪魔に魂を売ってしまった。」

こういったことは、私が医者になった当初から、頻繁にありました。この国の医療は矛盾がいっぱいで、誰かの都合のために、患者を犠牲にしたり、食い物にするといった行為は、日常茶飯事です。

この病院の院長も、その当時は、地元の政治活動で忙しく、臨床は行っていませんでしたが、病棟の回診だけは、欠かさず行っていました。患者への顔見せと、次は誰にIVHを入れようかと、物色するのが目的だったかもしれません。

そのつど、私の頭の中で、ある音楽が流れます。

ダースベイダーのテーマソングです。

よく、敬老の日に、100歳を超えた老人宅を、市長さんなんかが、記念品を持って訪れる、と言う話題が、ニュースになりますよね。

その時、本人は体調が悪いから、と言う理由で、面会を断る家族がいたとします。
次の年も、また次の年も、同様の理由で、面会を断られるとします。
あるとき、不審に思った市役所の職員が、家まで上がりこんで、本人を確認しようとします。
すると、布団の中には、死後何年も経過した老人のミイラがあったりして・・・。

ここ数年、100歳を越す人の数が、急激に増えています。
中には、その老人の年金欲しさに、老人の死後も、届けを出さずに、死んだ人の年金をもらい続けている家族が、少なからずいる、と言う報道もありました。

問題は、そう簡単ではないのです。

<おわり>

投稿者 morita1967 : 15:59 | コメント (0)

2010年05月08日

研修医シリーズ 10円玉

ある病院での出来事です。

この病院は、木曜は、午後は休診でした。
午前中の診療が終わり、みんな帰り支度をしていたとき、母親が、4歳くらいの女の子を抱いて、病院に駆け込んできました。

目の前で、この子供が10円玉を飲み込んだと言うのです。
子供は、きょとんとしていました。

私と、私より3つ年上の独身のA先生が対応しました。
私はこのとき、すでに子供が一人いました。
40代で、子供が3人いるB先生もまだ、病院に残っていました。

A「とりあえず、お腹と胸のレントゲンとって来いよ。」
私「はい、分かりました。」
B先生は、
「これくらいの年の子は、片時も目が離せないんだ。子供が10円玉を飲み込むなんて、親の怠慢だ。」
と、一人、怒っています。

レントゲンが出来上がりました。
私「確かに10円玉らしいものが、食道の真ん中あたりに写っています。気管に落ちなくて良かったですね。今から、内視鏡で取り出します。」
A「うん。準備ができたら、呼んでくれ。」
私「子供だから、麻酔で眠らせますね。」
A 「うん、分かった。」
この間、B先生は、ずっと母親をしかり続けています。母親は、もう泣き出しています。


私「でもこれ、穴は開いてないので、5円玉や50円玉でもないし、大きさからは10円玉か、100円玉でしょうけど、周囲にぎざぎざがあります。たぶん、100円玉ですね。10円玉にぎざぎざがあるのは、昭和33年までで、かなり珍しいですよ。」

実は、私、コインのコレクターでして、各年代毎の、コインの大きさ、ぎざぎざの有無、製造数などを覚えています。
昭和62年の50円玉は希少です。おそらく、官製の記念硬貨セット用に製造されただけで、ほとんど市中に出回っていません。よく、昭和のコインセットなどが、通販で売られていますが、ほとんどが昭和62年の50円玉が含まれていません。これについて問い合わせると、悪質なコイン商は、この年には50円玉が製造されていないと答えますが、これは嘘です。
もし、あなたがお持ちの昭和のコインセットに、62年の50円玉が含まれていなければ、それは残念ながら、ほとんど価値のないものです。

逆に、あなたのお財布に、もし昭和62年の50円玉があれば、今すぐコイン商に持って行ってみてください。ものすごい値段で買い取ってくれるはずです。

話がそれました。元に戻ります。

午後からの予定が台無しになってしまったせいか、A先生は、不機嫌です。
A「母親が、10円玉って言ってるんだ。そんなこと、どうでもいいじゃないか。早く準備しろよ。」
私「ハーイ」

内視鏡が始まりました。すぐにきらっと光る銀色の物体を発見しました。
私「やっぱり100円玉だ。」

100円玉は、簡単に取り出せました。

処置が終わり、私とA先生は、医局に戻りました。
B先生は、まだ残っていました。

午後からの予定が台無しになったA先生と、母親の怠慢が許せないB先生は、かなり不機嫌でした。
私だけが、思ったとおり10円玉ではなく100円玉だったことで、心がうきうきしていました。

B「大体、母親ってのはなあ・・・」
A&私「先生、もうどうでもいいじゃないですか。」
B「どうでもよくないワイ!」

私「でもね、やっぱり10円玉じゃなくて、100円玉でしたよ。」

A&B「そっちの方が、どうでもいいワイ!」

<おわり>

投稿者 morita1967 : 13:08 | コメント (0)

2010年05月05日

四国の思い出

先日、学生時代の、高知の思い出を書きましたが、今回は、医師として赴任した、四国の病院での思い出です。

医局の人事で、ほんの4ヶ月間ではありましたが、四国で生活したことがあります。

四国の第一印象は、赴任期間が夏だったこともあり、気候はとても穏やかで、道行く人も、とてものんびりしている、と言う印象でした。

普通、朝の通勤途中で、横断歩道の青信号が点滅を始めると、走りますよね。
しかし、四国の人は、そこで立ち止まります。

赴任の挨拶に行った日のこと、副院長が対応してくれました。
副院長は、私に向かって言いました。
「君は、ゴルフはするのかね?」
私は、そんなことには目もくれず、仕事にまい進する所存でございます。と言った気持ちで、
「いえ、ゴルフはしません!」
と言ったところ、副院長は少しがっかりした様子で、
「だったら、野球は?」
と聞き返します。
なにやら、医師会の行事で、ゴルフのコンペや、野球大会が頻回にあるそうなのですが、いつも参加者が少なくて困っている、との事でした。

全てにつけてこの調子で、定時は5時15分のはずなのに、もう5時にもなれば、院内はお開きのムードで、医局も、もぬけの殻状態でした。
民間病院なのに、経営はこんなのでいいのだろうかと心配になりましたが、ほとんどの職員は、病院経営が、赤なのか黒なのか、気にしていませんでした。

私も、じきにこの雰囲気になれ、晴れた日は、午後5時に家族を病院の玄関に待たせ、それから車で10分ほどの海水浴場に行き、人気のない、きれいな瀬戸内の海で、思う存分、夕暮れまで海水浴を楽しみました。

ある日、あまりに暇だったので、内科病棟まで出向き、オペできそうな患者はいないか、探して回りました。すると、大学の先輩の内科医が、ちょっと診てもらいたい患者がいると、言ってきました。
患者は高齢の女性で、もう1週間も発熱が続いている。いろいろ調べたが、特に痛いところもなく、よく分からない。念のため、さっき、お腹のCTを撮った。ちょっと診てくれとの事。

早速、CTを見せてもらいました。私は、見つけちゃいました。右の鼠径部に二ボーがあるのを。
「先生、これは、鼠径ヘルニアのかんとんです。でなきゃ、こんなところに空気が写るわけないでしょ?今はまだ絞やくが不完全なため、イレウスにもなっていないのです。だが早晩、この飛び出している部分の腸が腐り、腸の内容物が、鼠径部の皮下に流れ出します。そうなると、この年齢の方は、ほうか織炎から、あっという間にゼプシスになりますよ。今からオペしましょう。このまま、かんとんを解除して、腸をお腹の中に戻しても、もう1週間もたっているので、おそらく、腸は元には戻りません。同じように腸が破れて、もっと怖い腹膜炎になりますよ。」

内科医は、
「そうかあ、そこは診てなかったなあ。」
「一緒に見に行きましょう。」
患者の鼠径部を診ました。赤くはれ上がっています。
「おばあちゃん、ここ痛くないの?」
「なんともない」
しかし、この腫れを見て、内科医も納得しました。
「今すぐ、オペしてくれよ。家族への説明は、こっちでするから。」

私もすぐに、外科の医長にCTを見てもらいました。
「ホントかね、その話。」
外科医長は半信半疑です。
しかし、何とか説得して、オペ室の手配をしてもらいました。

オペが始まりました。
私が診断したとおり、小腸が、後一歩のところで、破裂する寸前でした。
「ホントだ、君の言ったとおりだ、ああ、良かったよかった。」
外科医長も納得してくれました。

オペしているとの情報を聞きつけた、外科病棟の婦長が、オペ室にやってきました。
「いったい、何のオペしてるのですか?今日はオペ日でもないし。それに、この方誰ですか?見たことないですけど」
外科医長が言います。
「森多君がね、内科病棟で、おとなしく寝ているおばあちゃんを、ここまで引きずり出したんだよ。」
そう言って笑いました。

数日後、院長に呼び出されました。
「君は、いつも仕事が終わってから、家族と海に行っているそうじゃないか?」
院長の耳にも入っていました。私はてっきり、きちんと定時まで仕事をしろと、注意されるものとばかり思いましたが、
「で、どこに行ってるんだ?」
「あそこの海岸ですけど」
すると院長は、こう言いました。
「あそこはイカン、ちょっと沖に行くと、汐の流れが速くて危ない。小さい子供も連れて行くんだろ?だったら、わしが今から、もっといい海水浴場を教えてあげよう。」
ちょっと、拍子抜けしましたが、なんとも温かいお言葉。

楽しい期間は、あっという間に過ぎるもので、私の、海水浴ざんまい、讃岐うどんざんまいの日々は、終わったのでした。

うどんの話は、また別の機会に書きます。

GW期間、毎日更新してみましたが、楽しんでいただけましたでしょうか?

<おわり>

投稿者 morita1967 : 12:09 | コメント (0)

2010年05月02日

研修医シリーズ お互い様

とても真剣な場面で、別に受けを狙ったわけでもないのに、不意に面白いことを言ってしまい、その場の雰囲気が壊れてしまう。そんな経験が、ありますか?

別にどーでもいーですよね。こんな話。でも今日はそんなお話。

ある夜、当直をしていました。
外来の外傷の患者さんの縫合処置をしていると、廊下の向こうから、けたたましい騒ぎ声が聞こえてきます。大声でわめき散らす男の声と、それを静止しようとする、ナースの悲鳴にも似た叫び声。
間違いなく、こっちに向かってきました。
「何か来るな」
いやな予感がしました。

処置室のドアが、勢いよくバーンと開いて、酔っ払いの男が入ってきました。
「おい!お前が先生か?今すぐ俺の女房を診ろ!!」
後から入ってきたナースは、既に半泣き状態です。

話はこうです。
この男は、酔っ払って夫婦喧嘩となり、自分の女房の背中をけりました。奥さんが血尿を訴えたため、病院に、アポなしで女房を担いで訪れました。

「すぐに俺の女房を診ろ!!」
「こちらの方の処置が終わりましたら、すぐに診ますから、隣のベッドに患者さんを寝かせてください。」
しかし、男は
「いーから、すぐに診ろ!!」
そう言って聞きません。
挙句の果てには、
「俺は○○組の幹部だ!この町の市長でも、この病院の院長でも、俺が言ったらなんでも言うことを聞くんだ!何なら、この病院、ぶっ壊してやろうかあ~?」
と、いすを振り回し始めました。確かに、男の小指は欠けていました。
「診る気がないのなら、今すぐ救急車を呼べ!他の病院で診てもらう!!」
と怒鳴ります。

本当に暴れられたら、私と守衛さんだけでは、到底この男を抑えきれない。救急隊員に来てもらえば、この男の興奮も少しは落ち着くだろうと考え、本当に救急車を呼びました。

本当は、こんなことで、救急車を呼んではいけません。

先にいた患者さんの処置が終わり、外に連れ出したところで、救急隊員が到着しました。
既にナースが事情を説明していました。
男は、ずっとわめき続けています。

来たのは、なんとも頼もしい、屈強の男子4人。

「今からすぐに、奥さんを診察しますから、静かにしてください。」
私と、この4人で、この男を取り囲みました。さすがに暴れる気はなくなったようですが、虚勢を張って、救急隊員たちにも、
「てめえらみんなぶっ殺すぞ!」
とか怒鳴っています。

最後に、男は、私の顔に鼻がくっつくほど顔を近づけ、酒臭い息を吐きながら怒鳴りました。

「てめえ、何様のつもりだ!!」

私も、救急隊が来て、少し気が大きくなったのと、カッと来たこともあって、「それはこっちの台詞だ!」と言うつもりだったところを、こう怒鳴ってしまいました。

「お互いさまあ~!」

これが、妙に面白かったらしく、救急隊員たちも、さっきまでべそをかいていたナースまでも、腹を抱えて笑いだしました。
救急隊員の一人が、男に言いました。
「まあ、あんたもそんなにカッカしないで。先生にお任せしましょうよ。」

男も、すっかりしらけてしまい、
「それじゃあ、よろしく頼みますよ」
と言い残し、おとなしく帰っていきました。

後に残された、この男の奥さんは、
「今、だんなは、その世界から足を洗っている最中で、堅気になったのだが、酒が手放せない状態で、酔うといつも暴力を振るう。しかし、悪い人ではないので、今はそっと見守ってあげたい。頼むから警察には連絡しないでほしい。もう二度と、この病院には迷惑はかけませんから。」
そう言い残し、男の後を追うように、病院を出て行きました。

その後、どうなったかは知りません。


この病院では、それからしばらくの間、「お互い様~」が、流行語となっていました。

<おわり>

投稿者 morita1967 : 13:27 | コメント (0)

2010年04月29日

田舎の警察

田舎では、警察とお医者さんはとっても仲良しです。
今では、警察に逮捕されたり、検挙されたりする医者がたくさんいますが、以前は、それほどでもありませんでした。
特に田舎では、お互い、持ちつ持たれつの関係で、今では考えられないような、便宜の供与が行われていました。

事件、事故、自殺など原因の如何を問わず、死体が発見された場合、死因が異状死なのか、自然死なのかを判断し、死亡診断書を作成するのは医師の役割です。大都会では、それ専門の監察医が死体検案を行いますが、監察医のいない田舎では、普通の医者が、現場に呼ばれます。
異状死体と判断された場合は、大都会では、監察医に送り、司法解剖が行われますが、田舎では、その都道府県に必ず一つはある医学部の、法医学教室に送らないといけません。仕事を増やしたくない田舎の警察は、当然、自然死と言う判断をしてくれる医師を死体検案に重用し、依頼します。

私は、まだ研修医だったので、死体検案には呼ばれませんでしたが、田舎の病院に勤務していた頃は、地元の警察署の、刑事課の警察官は、みんな顔見知りでした。
この病院には、無報酬で、死体の検案を行ったり、前にも書きましたが、犯罪の被害者を入院させたりする代わりに、刑事さんからは、何か困ったことがあったら、何でも言ってください。そう言われていました。


その見返りに、病院などに、暴力団関係者が入院したりすると、警察官に、頻回に見回りに来てもらったりしていました。

こんなことは、あってはならない事ですし、今ではもうなくなったと思いますが、ずっと以前、実際にあった、このような便宜供与の話を二つ。

ある病院の院長婦人が、スピード違反で捕まりました。免許証の提示を求められ、提示したところ、この方の免許は、半年以上前に期限が切れていました。
警察署まで連れて行かれたところで、顔なじみの刑事課の刑事と顔を合わせました。
「あら、奥さん、どうしたのですか?」
事情を説明すると、
「分かりました、私が何とかしましょう。」
と言うことになりました。

なんと、免許証が新品になり、無免許運転はおろか、スピード違反まで、もみ消してくれたのでした。

次は、私の話。
運転免許の更新の時期を迎えました。このときは、初めてのゴールド免許になるときで、更新には、必ず、県庁所在地のある街の免許センターまで、更新の講習を受けに行かないといけませんでした。
しかもこの講習は、平日のみでした。

その日は、朝から私が不在であると言う通知が、院内になされていましたが、私はすっかり、免許センターに行くことを忘れていました。
「あら、先生、何でここにいるの?」
ナースに言われて、初めて気が付きました。
再度、講習に行く算段をつけるのは、かなりのわずらわしさが予想されたため、顔なじみの刑事に相談してみました。
すると、
「分かりました。私が何とかしましょう。」
いつもの調子です。
ほんとに、何とかなるのかと、心配になりましたが、何でもいいから、先生の顔写真を一枚送ってくれとの事。
家中探しましたが、免許に貼り付ける写真など、見当たりません。仕方なく、記念にとってあった、大学生のときの、学生証に貼ってあった写真をはがし、提出しました。
この写真、私は21歳、しかも白黒。
普通の免許証は、免許センターで撮ったカラー写真を、免許に印刷しています。

しばらくして、免許証が出来上がったと、例の刑事から連絡が入りました。
さすがに、これは、警察署まで出頭していただかないと、お渡しできません、とのこと。

免許証を手にしてびっくり。あの写真で、見事にぴかぴかのゴールド免許が出来上がっていました。
更新に必要な講習も、警察署に出向いたという事実だけで、免除となりました。
しかも、記念の写真も、お返しいただきました。

この免許証は、その後の5年間、人に見せるたびに、不思議がられました。
そもそも白黒なんてありえませんし、異常なほど、私の顔が若かったからです。
検問では、毎回、本人照会がされました。

<おわり>

投稿者 morita1967 : 10:41 | コメント (0)

2010年04月28日

研修医シリーズ 救急車呼んだら・・・

今回は、私が大学病院での初期研修を終え、赴任した病院でのお話です。

今回の主人公は、70代の男性です。


この患者さんは、毎年のように、急性膵炎を起こし、入院をしていた患者さんです。こうなれば、もう慢性膵炎と呼んでもいいかもしれません。
毎回、お腹と背中が急に痛くなって入院し、絶飲食とFOYの点滴を、1週間ほどするとよくなって退院します。
この方は、大のお酒好きだったため、お酒の飲みすぎによる膵炎と、この病院では決め付けられていました。比較的、簡単な治療だったため、私の担当患者さんとなりました。


この方は、とても小さい方で、人柄もよく、確かにいつも酔っ払っていました。
この方の息子さんは、地元の消防署に勤務し、救急隊員として、よく救急患者を救急車で搬送してきていました。この息子は親とは違い100kg以上ある大男ですが、この息子もいい人です。

このときも、この患者は、お腹と背中が痛くなって入院となりました。アミラーゼの数値も上がっていたので、いつものように膵炎と診断され、治療が開始されました。
しかし、妙な点に気が付きました。
膵炎を頻繁に起こすほどの飲酒量にしては、肝臓はとてもきれいで、肝機能もそれほど高くはありませんでした。
ひょっとしたら、お酒以外にも、膵炎を起こす原因があるかもしれない。

みんなが、やめとけと言うのも聞かず、退院間際の患者さんを説得して、私は、ERCPをやってみることにしました。
すると、見事に、総胆管に小さな結石が2つあるのを発見しました。
おそらく、胆嚢でできた胆石が、総胆管に落っこちて、十二指腸に出て行かずに、総胆管の中で行ったり来たりしているうちに、時々運悪く膵管の出口に引っかかって膵炎を引き起こしていたのだと推察されました。
この結石がある限り、また膵炎を起こす可能性があります。

患者さんを説得し、内視鏡を使って、総胆管の結石を除去するESTと言う手術を行うことにしました。
普通、卒後1年目の医者が、ESTをするなんてこと、めったにないと思いますが、私はこれを、やってのけました。すいません、また自慢話してしまいました。

その後、患者さんは無事退院し、その後、膵炎を発症することはありませんでした。

しばらくしたある夜、救急車が病院に、患者を搬送してきました。
救急隊には、例の大男の息子がいましたが、しきりに患者を叱り飛ばしています。
いったいどうしたのよと、搬送された患者を覗き込みました。
そこには、全身ずぶぬれで頭から血を流した、大男の父親がいました。
「また、お腹痛くなったの?」
問いかけには答えず、ひくひくと、すすり泣きをしています。
「黙ってちゃ分からないから。いったいどうしたのよ?」

話はこうです。
ESTの後、すっかり膵炎から解放された患者さんは、酒のせいだとの濡れ衣も晴れ、思う存分酒を楽しむようになりました。
この日も昼間っから飲んで、家に帰る途中、酔っ払って田んぼに転落し、頭を用水路の角にぶつけて切ってしまいました。通りがかった人が、親切に救急車を呼んでくれて、搬送されてきたのでした。

「救急車が来たら、息子が乗ってたってわけだ。」
みんなで大笑いしました。
患者がぼそっと言います。

「わしゃあ、もう死んでしまいたい。」

「そんなに落ち込まなくても。しかし、酒は少し、控えたほうがいいなあ。」

念のため、血液検査をしましたが、アミラーゼは正常でした。

そこで一句

救急車
呼んだら息子が
乗っていた

<おしまい>

投稿者 morita1967 : 09:09 | コメント (0)

2010年04月17日

研修医シリーズ ギネ③

ギネ、最終回です。

処置としては、この壊死した腸管を切除し、腸管をつなぎ合わせるだけです。
小腸を切除する際は、どれくらいの長さの小腸が残るかが問題になります。上腸間膜動脈塞栓の場合は、小腸のほとんどが切除されますので、術後、栄養の吸収障害が起こります。

壊死した腸管の中には、腸内細菌が作り出したエンドトキシンという毒素が大量に詰まっています。この毒素が全身に回れば、患者はエンドトキシンショックを起こすかもしれません。壊死した部分は、そのままねじれを解除せず、一塊のまま切除します。
「このねじれを解除すると、麻酔科の先生、怒るぞ~」
外科部長が笑います。
「でも、この壊死の部分は、どれくらいの長さがあるんでしょうね?長さを、測ってみますか?」
二人で、そうーっと若い麻酔科医のKちゃんの顔を覗き込みます。Kちゃんは、マジ切れして言います。
「やめてくださいよ!マジで!」
「うそ、うそ、冗談」

切除する小腸の長さは測れないので、残せる小腸の長さを測ると、1m60cmありました。
これだけ残せると、まず、栄養の吸収障害は起こりません。
ここから先は簡単です。小腸を一塊に切除し、前後の腸管を吻合します。
「ドレーンは、どこに入れましょうかね?」私は尋ねます。
「あのなあ、わしは長いこと外科医をやっているが、この程度の小腸の吻合で、縫合不全を起こしたことなど、見たことも、聞いたこともない。それに、腸はお腹の中を動き回るので、ドレーンなど意味がない。入れんでもいい。」
「分かりましたー」
なんとも頼もしいお言葉。

手術は無事終わり、この患者が退院するまで、術後の処置に、毎日ギネの病棟に通いました。
患者も赤ちゃんも、無事退院し、私はすっかり、ギネの病棟では、若いのに頼りになる外科の先生、と見られるようになっていたと思います。

ある日、帰宅して、自慢げに、家内にこの話をしました。
「ああ、そう。それは良かったわね。」
なんともつれない返事でした。

医者の仕事は、人の命を救うことです。
そのためには、自分や家族を犠牲にすることも、仕方のない宿命です。
このときは気がつきませんでしたが、家内も子供も、きっと、パパには、他人の命よりも、もっと自分の家族の事を、見ていてほしかったのです。

30代には、人生の転機となるような事件をいくつか迎えましたが、この事件も、そのうちの一つだった様に思います。そのことに気がつくのは、ずっと後になってからのことでした。

<おわり>

投稿者 morita1967 : 13:16 | コメント (0)

2010年04月16日

研修医シリーズ ギネ②

前回の続きです。

まずは、ギネのスタッフが、帝王切開で赤ちゃんを取り出します。
帝王切開までは、腰椎麻酔で行います。
全身麻酔だと、赤ちゃんにも麻酔がかかり、生まれたときには呼吸もできないので、人工呼吸が必要になるからです。

通常、帝王切開は、下腹部を横に切開しますが、このときは、お腹をさらに大きく開ける必要があるので、縦に切開してもらいました。
お腹を開けてみると、にごった腹水も、臭いにおいもなく、幸い、腸管が破れて、穴があいているような状況ではありませんでした。

無事に赤ちゃんを取り出し、お母さんにも見てもらいました。安どの表情を浮かべましたが、しかし、ここからまた、お母さんにはがんばってもらわないといけません。
子宮を縫合した時点で、外科部長に来てもらいました。
ここからは、全身麻酔に切り替え、患者さんには寝てもらいます。

外科部長も、わくわくしていました。やっぱり、こういう緊急事態は、外科医は誰でも大好きなのです。
外科部長は、ナースに手を伸ばし、「メスッ」と言って勝手にメスを取り、傷を上腹部まで伸ばしました。
「先生!それ、僕の・・・」
「おお、そうだった、悪い悪い」
こんな調子です。

お腹が、大きく開けられました。
「何が出るかな、何が出るかな♪」外科部長は、歌っています。
胃の左横に、大網が、毬のように丸く固まっています。病変は、ここにあるに違いありません。
そうっと、大網をはがします。
すると、真っ黒いメロン大の塊が出てきました。

後ろから覗き込んでいたギネの部長が言います。
「やっぱり脾臓だ、壊死している!」
「いえ、脾臓はこんな上には出てきません。これはダルム(小腸)です。」

大きくなった子宮に圧迫された小腸が、何かの拍子にねじれて、一箇所が巾着のように絞まってしまい、締め付けられた小腸が、血流がなくなり、壊死していました。
まさに、腸が破れる寸前の状態でした。


<つづく>

投稿者 morita1967 : 10:46 | コメント (0)

2010年04月15日

研修医シリーズ ギネ

ギネもドラマになったので、皆さんご存知の言葉ですね。
産婦人科のことです。

ある日の午後、珍しく暇にしていると、ギネの外来に呼び出されました。
出産間近の妊婦さんが、急性腹症になり、緊急で開腹手術が必要と診断されました。

ギネの部長の話では、患者は、昨夜から、急にお腹が痛くなり、病院を二つ回って原因が分からず、とにかく緊急手術でお腹を開けないといけないということになり、うちに送ってこられた。
赤ちゃんは、もう十分に成長しているので、今から帝王切開で取り出す。その後、お腹の手術をお願いしたい。たぶん、腸ねん転か、アッペか、脾臓の壊死だと思う。との事。

とりあえず、簡単に患者さんのお腹を診察しましたが、臨月のお腹は、どこを触っても、激烈な痛みを訴えます。白血球も2万もあり、急性腹症であることは間違いありません。
念のため、CTを撮りませんかと提案しましたが、ギネの部長は、胎児に、そんな放射線は当てたくないと、断られました。
「分かりました。こちらも早速手配します。」そういって、外科外来に向かいました。

午前の外来が終わったばかりの、外科部長が、一番暇だと判断し、部長の所に行き、机のシャウカステンに、腹単のレントゲンをかけました。そこには、胎児が真ん中にどかっと写った先ほどの妊婦のお腹のレントゲン写真。外科部長は、例の如く
「外せ、外せッ!馬鹿、お前は妊婦と知らずに、レントゲンとってしまったのか!?」
外科部長は、すっかり勘違いして、私が、妊婦のお腹をレントゲンにかけてしまい、どうしたらよいか、相談に来た、と思い込んでいました。

違いますよ。こうこう、こうこうで、今からオペなんですけど、先生に前立ち(助手)をお願いできますか?
「赤ちゃん、取り出した時点で連絡入れますから。」
と説明すると、
「分かった、待機しとく」
と納得して、了解してくれました。

ギネの先生と一緒に、患者と家族に手術の説明をし、患者は手術室に搬送され、私も、最初から、手術に立ち会いました。

家族には、赤ちゃんはまず問題なく生まれますが、母体のお腹は、開けてみないと、何が出てくるか分からない。と神妙な面持ちで説明しましたが、心の中は、わくわくしていました。一体何が出てくるのだろうと。

<つづく>

投稿者 morita1967 : 13:11 | コメント (0)

2010年04月12日

研修医シリーズ おしゃべりな医者③

最後のお話です。


今回のお話は、聞いた話です。絶対に、あってはならないお話です。

ある病院に、胃がんの末期の状態で入院してきた、男性患者さんがいました。病状の説明は、本人にはまだ、されていませんでした。
一向に、手術の日取りが決まらないのに業を煮やしたこの男性は、ある日、床屋に出かけてくると、ナースステーションに告げ、外出しました。

この患者の外出中に、患者の兄と名乗る男性から、病院に電話がありました。弟の病状は、どういう状態なのか、との問い合わせでした。
この問い合わせに、主治医が対応し、相手をよく確認しないまま、弟さんは、既に、手の施しようのない、がんの末期の状態で、余命いくばくもない。と、説明してしまいました。

その後、この患者さんは、二度と病院には、もどって来なかったそうです。

患者の兄と名乗る男性は、患者本人であったに、違いありません。


当院でも、よく、患者の家族を名乗る方からの、お問い合わせのお電話をいただきます。

しかし、お電話口に、患者様本人がいらっしゃらないときには、絶対に、診療内容はおろか、患者様が、来院したかどうかも、お話しないように、職員に徹底しています。
患者様のプライバシーの保護はもとより、患者様が、犯罪に巻き込まれる可能性もあるからです。
患者の家族と名乗る方が、全くの赤の他人であることが、考えられるためです。

患者のプライバシーの保護、守秘義務は、医師にはとても大切な問題です。

今回で、おしゃべりな医者シリーズは終わりです。
しかし、、ブログにこういうことを書くのも、一種のおしゃべりなのですよね。

<おわり>

投稿者 morita1967 : 17:44 | コメント (0)

2010年04月10日

研修医シリーズ おしゃべりな医者②

この前のつづきです。

続きまして、C先生。

あるとき、病院の近くで、女性の連れ去り事件が発生しました。
2日間、女性は、犯人に車で連れ回されましたが、犯人の隙を見て逃げ出し、警察に保護されました。

女性は、事情聴取のため、事件が発生した場所の、管轄の警察署につれてこられました。
幸い、女性に怪我はありませんでしたが、警察署には、女性が安心して泊まれるところがないため、大事をとって、私の勤めていた病院に、入院と言う形になりました。

このときはまだ捕まっていなかった犯人が、もし、女性の居所を突き止めたら、女性を殺害に来る可能性もある、との事で、女性の病室には女性警官が同室し、一部の職員だけがこの女性の看護に当たり、その職員にも緘口令がしかれました。当然、私も、事実を知りませんでした。

主治医はC先生になりました。

帰宅した私に、家内が聞きます。
「この間の、連れ去り事件の被害者、あなたの病院に入院してるんだって?!」
びっくりして、家内に聞き返します。
「誰にそんなことを聞いた?」
「C先生の奥さんに聞いたの。さっき病院のC先生から電話があったって。誰にもしゃべるなって」

「誰にもしゃべるな」って、どういう意味なのでしょう。

解釈の難しい言葉ですなあ。

<つづく>


投稿者 morita1967 : 17:54 | コメント (0)

2010年04月09日

研修医シリーズ おしゃべりな医者

お医者さんには、当然、守秘義務があります。
ただ、どうしても誰かに喋りたくなるような事が、時にはあるようです。
今回は、そんな話を三つ。

まずはA先生

呼吸器・循環器系の当直をしていた夜、一般当直の年配のA先生に呼び出されました。
A先生は興奮して、一方的にしゃべります。

実はこのとき、ある国民的な歌手が、動悸を訴えて夜間外来を訪れていました。歌手はその直前に、婚約を発表したばかりで、そのフィアンセも付き添ってきていました。
A先生は、私にその歌手の心電図を見せ、
「本当に不整脈が出ている。それに○○○(フィアンセのこと)も来ている!」

別に、その歌手に特に興味のなかった私は、
「先生、これは、心房細動です。すぐに循環器内科の医者に任せた方がいいですよ」と、助言しましたところ、
「そんなこたあ、最初ッからわかっとる」とのこと。つまり、誰かにその歌手が来ていることを、しゃべりたくて仕方がなかっただけなのでした。

A先生は、マネージャーに、執拗に口止めを依頼されたにもかかわらず、翌日の外科外来は、この歌手の話で持ちきりでした。

続きまして、B先生

ある日の午後、病棟でカルテ整理を済ませ、さあもう帰宅するぞ、という体勢の私のところに、B先生がこのこのとやって来て言います。
「××(有名なプロ野球選手)のサインもらっちゃったあー。見たい?」
特別、見たいとも思わなかった私は、
「別に、どうでもいいですけど」、
と言いました。気持ち的には(私は早く帰りたい、それにしてもおしゃべりだなあB先生も)と言う感じ。

しかしB先生は、引き下がる様子もなく、
「見たい?見たくない?ねえ、見て?」としつこく言い寄ってきます。
あまりのしつこさに、つい
「分かりましたよ、見たい、見たい」
と言ってしまいました。

B先生は、「ほらっ」と言って、カルテを広げました。
開いたカルテの、そのページは、手術同意書のページ。家族の欄には、××の署名がありました。
「なんすか?これ?」
「実はねえ~、××の奥さんがアッペになって、今からオペしないといけないんだよ」
しまった、はめられた。

こんな時間からの緊急オペは、みんなが嫌がって助手をしてくれません。しかし、一年目やそこらの研修医を助手にするのは、さすがにスペ患だけにはばかられる。そう考えたB先生は、私に白羽の矢を立てたのでした。

その日は、すっかり帰宅が遅くなってしまいました。

次の日もB先生は、病棟のナース一人ひとりに
「××のサインもらっちゃったー、見たい?」
と、聞きまくっていました。

<つづく>

投稿者 morita1967 : 12:59 | コメント (1)

2010年03月16日

研修医シリーズ ん??おじいちゃん?②

早速、心肺蘇生に取り掛かりました。
まずは、救急のABCから。

まずは挿管、これは、とっても簡単に入りました。
ナースにバッグを押してもらいます。呼吸も確保。
私は心臓マッサージ。ここまでは2~3分。

モニターはフラットのまま。
ボスミン、メイロン静注!
心臓マッサージ。
まだフラット。
ええい、いっちょうやってみるか。ボスミン、心嚢腔内投与!カテラン針で心臓をブスッ。
心臓マッサージ継続。
そこには、ちょっと調子に乗って、いくらか、楽しそうにしている私がいました。
だって、こういうのが好きなんだもん。

すると、モニターが、ぴこっ ぴこっと動き始めたではありませんか。

程なく、自発呼吸も戻りました。呼びかけには、何の反応も示しませんが、体をゆすると、目を開けようとする反応を示すようになりました。耳が、かなり遠いようです。
「いやあ~、やっぱりやってみるもんだねえ~。ちゃんと蘇生できたよ」
私は、軽口をたたいてしまいました。

病院からの、患者急変の知らせに、真っ先に駆けつけた患者の家族は、若い女性でした。この人は、患者の孫だろうと思い、説明を始めました。
「私は当直の外科医です。詳しいことは、主治医から聞いてください。とにかく、おばあちゃんは今、自分で呼吸をして、意識もあります。ほら、しっかり手を握ってあげてください。」
耳が遠いようなので、手を握ってもらいました。
患者には、
「おばあちゃん、お孫さんが駆けつけてくれましたよ、がんばったね。」
と、声をかけてあげました。やっぱり、何も聞こえていないようです。女性は、少し、腑に落ちない表情をしましたが、患者の顔を覗き込み、間違いなく自分の家族と確認し、
「私よ!○○よ!分かる?!」
患者も手を握り返しました。目は、見えたようです。安心した女性は、控え室へと通されました。

そこへ、呼吸器内科をローテーション中の、一年目の内科研修医が駆けつけました。
「何だ、先生が呼ばれたの?忙しいのに朝早くから大変だね。」
呼吸器内科の主治医には、まだ連絡が付かないとの事。何と言うていたらく!

内科研修医は、いまのうちに、患者にIVHを入れておきたいと言います。それはいい考えだ。
しかし、この研修医は、まだ経験が浅く、私にそばで見ていてほしいと。いいとも!

IVHを長期間入れておく場合、患者のCOLと、管理のしやすさを考えると、挿入部位の選択順位は①右鎖骨下静脈、②右頸静脈、③鼠径部からの大腿静脈、の順になりますが、この時の様に、絶対に失敗が許されない状況では、③鼠径部からの大腿静脈穿刺になります。

早速、IVHの準備に取り掛かりました。
ナースが、患者の紙おむつを脱がせ、消毒を始めました。すると、そこにあるのは、なんとおチンチンではありませんか。
「いやあ~、誰も言ってくれなかったから、僕はてっきり、この人をおばあちゃんだと思ってたよ。家族にもそういっちゃった。だからあの人、少し怪訝そうにしていたんだなあ。いやあ~まいったまいった。わっはっは」
私は、また軽口をたたいてしまいました。

IVHも無事入ったところで、自分が汗ばんでいるのに気がつき、ナースに言いました。
「それにしても、暑いなーこの部屋は。カーテン開けようよ」
ナースは、私の耳元でそっとささやきます。
「ここは、4人部屋なんです。」

ガーン やってもうたあ~

カーテンの向こう側では、他の患者さんたちが聞き耳を立てて、事の一部始終を、窺っていたに違いありません。私の軽口も聞かれていたはずです。内科研修医に
「じゃあ、あとはよろしく」
そう言って、逃げるように、結核病棟を後にしました。

立ち去る私の背中に、ナースが追い打ちをかけます。
「センセー、戻ったら、すぐに手を洗って、うがいをしてください。それから、その白衣もすぐに洗濯に出して。しばらくしたら、念のため、ツ反を受けてください。ここは結核病棟ですからー。どうもありがとー。」
わかったよ、もう。はずかしい・・・

やっぱり、軽口たたく人は、いかんなあ。


おわり

投稿者 morita1967 : 19:35 | コメント (1)

2010年03月15日

研修医シリーズ ん??おじいちゃん?

外科になりたての一年目に、あまりの忙しさに、よく走って病棟間を行き来していました。
すると、指導医の先生に、こう諭されました。
医者は、走ってはいけない。走ると、走っていることに気をとられて、行き着いた先で、とっさの判断ができなくなる。早歩きでもいいから、歩いて行くと、その間に、真っ先に何をするべきかを、思考する時間ができ、適切な処置ができる。そもそも走っていくと、息が上がってしまい、すぐには頭が働かない、と。
なるほど、理にかなっている、と思いました。

それ以降、どんな緊急事態でも、できるだけ歩いて移動するように心がけていましたが、走ってしまったことが、3回だけあります。

1回目は、右腕切断の患者が病院に担ぎ込まれ、医者が自分しかいなかったとき。
廊下に赤いペンキでもまき散らかしたかのような、おびただしい出血を見たとき、とっさに走り出しました。
2回目は、受け持ちの術後の患者が、心配停止になったとき。このときは、そういった事態が起こる事は、事前に十分予想されていましたが、後々のことを考え、真っ先に走って駆けつけたという事実を残そうと言う、ある種のパフォーマンスでした。

そして、3回目が今回のお話です。

それは、土曜の夜の当直開けの、日曜の朝の出来事でした。

頭のケガの外来患者の、縫合処置を、処置室でしていたところ、結核病棟から連絡が入りました。
昨夜、入院してきた患者さんが、突然、心配停止になったので、至急来てほしいとのことでした。

この縫合処置が終われば、当直が空ける私は、
「こういったときは、一般当直ではなく、ICUの当直医を呼ぶ決まりなので、そうしてください。」
といって、断りましたが、電話の向こうの混乱ぶりを察した、ベテランナースは、
「結核病棟は、かなり混乱しているみたいです。決まりごとなんて、どうでもいいですから、すぐに行ってあげてください。ここは、他の研修医に任せますから。」
そういって、私をせかしました。

しょうがないなあ、と思いながら、いやいや、結核病棟に向かって歩き始めた私の背中に、また、このベテランナースがこう、追い打ちをかけます。
「先生、走っていった方が、いいみたいですよ!」
ははーん、コリャなんか訳ありだな、と察した私は、走って結核病棟に向かいました。

結核病棟の担当の呼吸器内科は、そのていたらくぶりで、院内でも有名でした。何かあったときに、すぐに駆けつけられる当番も、作っていなかったようです。

結核病棟に到着しました。
「ここは、感染病棟だから、ガウンと帽子とマスクを着用しないといけないのだろう?」と聞くと、
「そんなことどうでもいいから、すぐに、こっちです!」と、その患者の病室に案内されました。
患者さんは、カーテンで四方を仕切られたベッドに、横たわっていました。心拍が停止してから、それほど時間は経っていなかったようです。

病棟の主任が説明します。

この患者は、結核の再燃と寛解を繰り返し、何度も入退院をしている高齢の方でした。昨夜は、肺炎を起こし、緊急入院となったそうです。何があってもおかしくはない状況なのに、主治医からは、患者の家族に対して、そんな差し迫った状況だとの説明が、全く行われていないとの事でした。

急に今、亡くなったりしたら、後々、患者の家族との間で、事がこじれることは間違いないので、今は何とか、一旦蘇生させてほしい。と懇願されました。

こんな状況、実は、私、大好きです。ほとんどの医者は、そうだと思います。
目いっぱい、低く渋い声で言いました。
「分かった、任せなさい!」 実は、私、この台詞も大好きです。よく使います。俄然、やる気が出てきました。


つづく

投稿者 morita1967 : 10:16 | コメント (0)

2010年02月23日

研修医シリーズ ラッキー7??

昨日は、平成22年2月22日、2並びの日でした。

今回は、15年前、平成7年の出来事のお話です。

その日は、日曜日でしたが、研修医には、土曜も日曜もなく、私はいつものように、病院で仕事をしていました。
ある、癌の末期の患者さんが、そろそろ亡くなりそうだと、ナースから連絡が入りました。
その患者の主治医の先生は、その日は、所用で病院に来られず、患者さんが亡くなっても、臨終に立ち会えないかもしれないと、昨日のうちに、家族に説明してあるとのことでした。

やがて、心電図のモニターがフラットになり、私が病室に呼ばれました。
慎重に、死亡確認を行い、死亡の時刻を、家族に告げ、最後に『ご臨終です。』と言って、深々と頭を下げ、病室を後にしました。病院では、ごくありふれた、日常の光景です。

ナースたちが、死後の処置をしているうちに、医師は、死亡診断書を作成しないといけません。
ご遺体が搬送される間、この死亡診断書は、ご遺体と一緒に移動しないといけません。
車が、途中で検問なんかに引っかかって、中に死体があったりすると、とても厄介なことになるからです。

仕事を一時中断し、私は、この患者のカルテを見ながら、死亡診断書の作成を行いました。
そのとき、私は、とんでもないことに気がつきました。こんなこと、本当にあるんだ!と。
驚きと、ある種、喜びにも似た感情がわきあがりました。
しかし、こんな不謹慎なことは、誰にも告げようがありません。

ご遺体のお見送りを済ませた後も、私はまだ、この感動を抑え切れませんでした。
挙動のおかしい私に、ナースが問いかけます。
「先生、何を一人で興奮してんのよ?」
私は答えます。
「それがね、あの患者さん○×△□で、○×△□だったんだよ!」
「え~!それはすごい!!」
みなも、一様に驚きと、ある種の感動を覚えました。

その患者さんは、大正7年7月7日生まれ、お亡くなりになった日は、平成7年7月7日、
その日は、満77歳の誕生日でした。

この後、おそらく、7がずらりと並んだこの死亡診断書は、回っていく、あちこちの部署で、見た人に驚きと感動をわき起こしたのでしょうが、誰も、それを口にできずにいたことでしょう。

投稿者 morita1967 : 13:11 | コメント (0)

2010年01月26日

研修医シリーズ フグ中毒

今回のお話は、たまたま、ある職場で、机を隣にさせていただいた、大先輩の麻酔科医の、研修医時代の失敗談です。

この国に、やっとICUができ始めたばかりの、昭和40年代の出来事です。
この麻酔科医、S先生は、卒後1年目を、大学病院で過ごしていました。
お正月になり、主だったスタッフは休暇を取り、ICUには、わずかのスタッフと、その年卒業し、いなくなったスタッフの穴埋めのために召集された、各科の研修医たちが残されました。
ICUは、さながら、同窓会の会場のような雰囲気になり、研修医たちは、その年に、自分たちが体験をした話を、まるで武勇伝のように、語り合っていたそうです。

そんな折、心肺停止状態の患者が、ICUに搬送されてきました。
患者は、自分で釣ったフグを、自分で調理し、自宅で食べているうちに、呼吸が止まったのでした。
典型的な、フグ中毒です。

フグの毒素は、皆さんご存知の通り、テトロドトキシンです。この毒素は、神経を麻痺させ、感覚の鈍麻と、筋肉の動きを止める作用があり、最終的に、呼吸筋が止まると、窒息して、死に至らしめます。
治療法は、人工呼吸を施し、毒素が分解されるのを、ひたすら待ち続けるだけです。

S先生は、この患者に心肺蘇生を施し、見事に蘇生させ、人工呼吸器につなぎ、IVHを挿入し、モニターを接続し、初期の治療には、全て成功しました。後は、ひたすら、患者の自発呼吸が、現れるまで、待つだけでした。

患者の枕元には、各科の研修医たちが集まり、また、武勇伝を語り合い始めました。
脳外科の研修医は、
「脳に、長い間刺激が伝わらないと、脳は萎縮を始める。そのうちに脳は豆腐のように軟らかくなってしまうんだ。」
整形外科の研修医は、
「この間、大学のラグビー部の学生が、スクラムの際、首の骨が折れて運ばれてきた。最初のうちは、元気にしゃべっていたが、そのうちに何の反応もしなくなり、死んでしまった。やっぱり脳は、ぐじゅぐじゅになっていた。」
S先生も負けじと、
「この患者も、心肺停止から蘇生までの時間が問題だ、あまりに長いと、命は助かっても、植物状態になるかもしれない。」
などと、careless talkを繰り返したのでした。

正月休みも終わり、スタッフがICUに戻ってきました。
早速、教授回診が始まりました。S先生は、少し自慢げに、このフグ中毒の患者の説明をしました。見事に蘇生できたことを、少しは褒めて欲しかったのだそうです。
しかし、カルテを眺めていた教授は、不審そうにこう問いただしました。
「ところで、sedationには、何を使っているのだね?」
(どんな鎮静剤を使って、この患者を眠らせているのか?)と言う意味です。
S先生は、質問の意味が、すぐには理解できませんでした。
「はあぁ?」と、ぽっかり口を開けていると、教授がこう続けました。
「おいおい!君たち、何をやってるんだ!!フグ中毒の患者は、筋肉が動かないだけで、意識ははっきりしているんだぞ!」

みなの顔から、血の気が引いていき、額には冷や汗が流れました。直接は関係のない、他科の研修医たちは、蜘蛛の子を散らすように、その場からいなくなりました。
「あの、枕元でのcareless talkを、聞かれていたかもしれない!」一人残された、S先生は、不安で仕方がありませんでした。

ほどなく、患者に自発呼吸が戻ってきました。そして、ついに抜管の日がやってきました。
抜管直後、この患者が発した第一声は、こうでした。
「もう、ほんま、殺生(せっしょう)だっせ!」
(もう、まったく、ひどいなあ!)こんな感じでしょうか。

幸いにして、患者に苦痛を伴う処置を施しているときの記憶は、なかったそうです。しかし、枕元でのcareless talkは、そのほとんどを覚えていました。今では、訴訟を起こされても仕方のない事例ですが、この当時は、たいした問題にもならず、その患者は、元気に退院となりました。

その後、S先生は、たとえ全身麻酔のかかった患者でも、ひょっとしたら、意識があるかもしれない。と、肝に銘じて、麻酔科生活を送ったそうです。

医療側と、患者の間で起こるトラブルのほとんどには、医療側スタッフの、不用意な発言があると聞きます。

この業界、たとえ、どんな状況でも、患者を前にしてのcareless talkは、厳禁です。

最近、寒い日が続きますが、先週、東京にも、霜柱が立ちました。
あまりに見事だったので、掘り出して、置いて見ました。高さは、4cmはあります。

霜柱.JPG

投稿者 morita1967 : 13:05 | コメント (0)

2010年01月18日

研修医シリーズ 震災から15年

今回は、15年前のお話です。
15年前、私は、1年目の研修医として、関西地方の病院に勤務していました。
阪神・淡路大震災のときの揺れを、実際に体験しています。

一瞬であれほどの惨劇が起きたことの恐れ、たくさんの方がなくなられた喪失感は、
私の人生で最大のものです。

あの時、神戸で、柱が1本しかない、高架式の道路が横倒しになり、多くの犠牲者が出ましたが、
毎年、あの映像がテレビで流されますので、皆さんのご記憶にもあると思います。
実は、私は、あの道路を、地震の9時間前に車で通過していました。
今でも、思い出すと、ぞおっと、背筋が凍る思いがします。

その後、3月に、東京で、地下鉄サリン事件が起こりますが、
このときも、その1日前には、私も地下鉄有楽町線に乗っていました。
この年は、危ない思いを2度も経験しました。

地震の後、たくさんのけが人や、病院が倒壊し、居場所のなくなった患者さんが、私の勤務していた病院にも、搬送されてきました。

そのころ、胃潰瘍による大量吐血の患者さんも入院してきました。
この方は、ヘモグロビンが5g/dlしかなく、緊急に、輸血と、止血の処置が必要でした。
しかし、この方は、保険証を持っていませんでした。
入院は、長期になる可能性が高いことと、かなりの治療費がかかることも予想されるので、
今からでも間に合うので、保険証を作る必要がある。病院が、その手続きの代行をします。
まずは、住所を教えてほしい。また、家族にも至急来ていただき、病状の説明と、今後の治療の承諾を得る必要があるので、連絡を取ってほしい。と言ったことを、事務方が伝えました。

すると、この患者さんは、金なら家にあるから、今から取りに帰る、そういって聞きません。
すぐに戻るから、そういい残し、みなの制止を強引に振り切って、ふらふらの状態で病院を去って行ってしまいました。

後日、警察から電話がありました。
神戸で、震災で倒壊した建物から、盗みを繰り返していた者を、現行犯で逮捕した。
その犯人の供述で、共に盗みを働いていた共犯者が、吐血をして病院に担ぎ込まれた。
その病院は、どうやらおたくらしい。
以上の内容でした。

あの患者さんは、入院が長引けば、いずれ自分は逮捕されると考え、命がけの逃避行に打って出たのでした。

どこかで、倒れて、そのまま死んだりしていまいかと、かなり心配をしましたが、その後、どこからも、何の連絡も入りませんでした。

今でも、あの患者の顔も名前も、明確に覚えています。
まさか逃げ出すなんて思っても見なかったので、重要なことを伝えていなかったことも気がかりでした。
どこかでばったり出会ったなら、一言、言ってあげたいことがあります。

あなたは、梅毒に感染しています。しかも、かなりactiveな状態ですと。

投稿者 morita1967 : 13:27 | コメント (0)

2009年11月30日

研修医シリーズ ガーゼオーマ③

救急搬送されたこの患者さんの容態は、安定していました。

主治医は、当然T医師に決まりました。
輸血と、止血剤の投与で、脾臓からの出血はおさまり、意識もはっきりとしてきました。
どうやら、緊急手術はしなくても良いと言うことになり、みなほっと胸をなでおろしました。

しかし、患者の体内に残されたガーゼのことは、これ以上隠しておくことはできません。聞く所では、患者の甥は、歯科医とのこと。きちんと事態を説明し、謝罪することになりました。

数日後、患者の家族を呼んで、状況説明と、謝罪をすることになりました。
今回の主治医のT医師、肺がんの手術をした呼吸器外科部長、大動脈瘤の手術をした血管外科部長の3者以外は、立ち入りを禁止されました。
私達は、遠巻きに、この会の結果を、固唾を飲んで待っていました。

説明の会が終わり、みながカウンセリングルームから出てきました。
先に出てきた、呼吸器外科部長と、血管外科部長が、肩をゆすって、必死に笑いをかみ殺しながら廊下を並んで歩いて行きました。
「確か、きちんと説明したはずでしたよ・・・」
「そうだったよね、私も今思い出したよ・・・」
なにやら、こんなことを言っていました。

最後に出てきたT医師に、みんな駆け寄りました。あとは、T医師に聞いた話です。

まずは、今回の入院の経過を説明し、緊急手術の必要はなくなったこと。次に、ガーゼの件についての説明をし、3人で、家族に深々と頭を下げました。
家族は、きょとんとした表情で、3人は、拍子抜けしてしまったそうです。
家族を代表して、歯科医の甥が発言しました。
「ガーゼの件は、既に、前回の退院のときに、事実を告げられ、みな納得していました。
体内に残されたガーゼが、全て害をもたらすことではないことは、私もよく知っています。
事実、このガーゼのおかげで、大動脈瘤は、破裂せずに、おじも今日まで元気に生きてこられました。
こんなガーゼが、もし他の病院で見つかったら、この病院にご迷惑がかかるだけで、何の解決にもならないことを、家族にも申し付け、何かあったら、必ずこの病院のお世話になるように、徹底させてきました。
今回も、また、命を救っていただいて、家族一同、本当に感謝しています。」

こんな感じでした。

この患者は、すっかり意識も回復し、大好きだったT医師との再会も果たせ、とても喜んでいました。
T医師に向かい、
「また、あんたに会えるとは、思っても見なかった。ずいぶんと立派になったもんだ。
また、あんたに命を救ってもらった。ありがとう」
こう言い残し、今回も元気に退院していきました。

私がこの一件で感じたことは、患者とその家族と、医師の信頼関係の大切さ。
きちんとした態度で診療に臨み、誠意ある行動をとること。
患者にとって、最良の治療を選択すること。
などです。

それにしても、いい人たちだったなあ・・・。

おわり

投稿者 morita1967 : 17:55 | コメント (0)

2009年11月26日

研修医シリーズ ガーゼオーマ②

T医師の話です。
この患者は、肺がんと、胸部大動脈瘤が同時に発見されました。
複数の病変が同時に見つかった場合に、どれから順に手術をするかは、難しい問題です。このとき既に70代だったこの患者にとっては、ことさらに難しい問題でした。
2つの手術を同時にすることは、体力的に無理との判断で、また、緊急性と、患者の寿命も勘案し、まずは肺がんの手術を行い、十分に体力が回復した時点で、胸部大動脈流の手術をすることが決定しました。

肺癌は、左の下葉にありました。左開胸で、無事癌の切除は成功しました。左の下葉を取り除くと、胸部大動脈瘤は、まざまざと視野に入りました。このまま、この空間を残したままで閉胸すると、動脈瘤が大きくなり、破裂するリスクを高めてしまう可能性があると、判断されました。そこで、次の大動脈瘤の手術までの間、このスペースにえつきガーゼと言う、ハンカチタオルくらいのガーゼを詰め込み、動脈瘤を圧迫した状態にしておこうと言うことになり、ガーゼをあえて残したまま、一回目の手術を終了しました。

患者は、見事に回復し、長期予後も期待できることから、2回目の、胸部大動脈瘤の手術が行われることになりました。この手術で、なにが起こったのかは定かではありませんが、とにかくとんでもないことが起こった事は、間違いありません。ガーゼを取り除くどころか、さらにもう一枚、えつきガーゼを詰め込んで手術を終了したのでした。動脈瘤が、手術できないほど大きかったのか、ガーゼが動脈瘤と癒着を起こし、ガーゼを動脈から外そうとしたとき、大出血を起こしてしまったのか、まあ、そんなところではないでしょうか。

患者は、その後、十分に経過観察され、ガーゼが今後、大きな問題を起こす可能性は低いこと、大動脈瘤の大きさも、ガーゼにより圧迫され、拡大傾向にないこと、などを確認し、退院となりました。

退院時は、患者にも、家族にも、執拗な指示がなされました。
今後、どんな病気にかかっても、必ずこの病院が治療をするので、何があっても、絶対に他の病院には行かず、この病院に来ること。

患者はその後、この指示を忠実に守り続け、今回も、確実に実行に移したのでした。


つづく

投稿者 morita1967 : 14:50 | コメント (0)

研修医シリーズ ガーゼオーマ①

最近は、医療現場を舞台にしたドラマが、切れ目なくオンエアーされ、ガーゼオーマ(手術の際、体内に取り残された、ガーゼの意味)と言う言葉も、すっかり一般の方にも定着しました。
今回のお話は、そのガーゼオーマが巻き起こした、ある出来事についてのお話です。このエピソードに、私の出番はありません。ただの傍観者です。

ある日、私の勤務していた病院に、近郊の中規模の病院から、80代の男性が救急搬送されてきました。男性には、女性の内科研修医が付き添ってきました。
状況はこうです。男性は、この日、自転車で転倒し、腹部にダメージを受けました。脾臓に裂け目ができ、腹腔内にかなりの出血があり、血圧も低下してきたため緊急手術が必要と診断されました。
ところが、この男性は、かたくなに、私の勤務していた病院での治療を希望され、搬送されたとのことでした。

外科の詰め所に女医が案内され、召集された、手のあいている外科医たちにプレゼンを始めました。
女医が、シャウカステンにCT画像の掲示を始めたとたん、外科医たちの視線は、一点に集中しました。中には、思わず「あっ」と声を上げるものや、その一点を指差すものもいました。

CT画像には、患者の心臓の裏から、胃の上部までを占める、メロン大の物体が写っています。一目で、ガーゼの塊だと、外科医全員が気付きました。しかも、ただ事ではない大きさです。
女医は、淡々と説明を続けています。
「この、脾臓の裏に、大きな血腫があります。開腹して、脾臓を摘出するか、こちらでは、カテーテルでエンボリも可能かと思います・・・」
でも、誰も真剣に聞いていません。誰かが質問しました。
「この塊、なんだか分かりますか?」
「それなんですけど、なんだかよくわからないのですが、今回の出血とはあまり関係ないかと・・・」
女医は、ガーゼに気づいていませんでした。おそらく、まだ、ガーゼオーマの経験がなかったからでしょう。と、言うことは、まだ、患者にも、家族にも、この事実は告げられていないということになります。

外科部長が、遅れてやってきました。ニコニコしながら、なにやら珍しい症例なのかな?などと言いながら、興味津津でCTを覗き込みました。彼も、見た瞬間に異変に気づきました。
「こら!!、外せッ外せッ!!」と言って、CT画像をシャウカステンから剥ぎ取りました。
「誰かに見られたらどうするんだ!」
「誰の症例だ!?お前か?お前か?」みんなの顔を睨み付けました。
彼は、てっきり、うちで手術をした患者が、手術中に置き忘れたガーゼのことを、よその病院で指摘され、怒鳴り込んできたのだと、勘違いしていたのでしょう。

外科部長に、状況を理解してもらったところで、過去のこの患者のカルテが出てきました。
主治医の欄に、半年ほど前に、この病院に赴任してきた、T医師の名前がありました。十数年前に、T医師は、この病院で研修医をしていました。この男性は、その当時の患者さんです。

すぐに呼びつけられたT医師は、カルテの表紙を見るなり、中身も見ずに、このときの状況を朗々と話し始めました。
「爺さん、まだ生きてたんですね・・・」

つづく


投稿者 morita1967 : 13:43 | コメント (0)

2009年10月23日

研修医シリーズ 聞きまつがい

今回のお話は、単なる聞き間違いです。

私たちが、学生の時代は、医学はとうにドイツ語から英語の時代になっていました。
病名なども、全て英語で習いましたが、世間ではまだまだ、和製ドイツ語を使っている病院が、たくさんあります。
カルテやクランケ(患者を指すこの単語は、本国ドイツでも使われないそうですが)、ステる(患者さんが亡くなること)などは、今でも、この国では広く使われています。

初めて一人で当直をすることになった日の出来事です。
心配した院長が、
「今日は、私も病院にいますから、何かあったら呼んでください。」
と言って下さいました。不安と緊張感が、少しだけ和らぎました。

夜中に、突然、わき腹が痛くなった男性が、担ぎこまれてきました。
かなりの痛がり様で、体をくねらせ、脂汗をたらたらと流していました。
慎重に診察した後、院長に来てもらいました。
「緊急に、手術をしないといけない状態ではないと思います。今から、血液検査、お腹のレントゲン、お腹のエコー検査をしようと思います。」
と、報告しました。
院長が到着したときには、この男性は、なぜだか分かりませんが、痛みがかなりなくなってきた様子でした。
院長は、自分も診察した後
「そうですね、緊急性はなさそうです。軽く痛み止めを使って、今、君が言った検査は、明日の朝からでいいでしょう。」
そう言って引き上げていきました。帰りぎわ、なにやらナースに追加の検査の指示を出していきました。
カルテには、尿沈さ(さは、さんずいに査。おしっこを遠心分離機にかけ、底に溜った物を顕微鏡で見る検査)の支持がありました。
私も、絶飲食と、点滴の指示を追加し、そのまま寝ました。

そのまま、起こされることもなく、朝を迎えました。
真っ先に、その男性の部屋へと向かいました。
彼は、ニコニコしながらベッドに座り、家族に買ってきてもらったと言う、パンと牛乳を口にしていました。
「何で飯食ってるの?」
ナースに問いかけました。
すると、あれから点滴を始めたとたんに、おしっこが出て、痛みがなくなったとのこと。
その尿を沈さに回し、院長を呼んで結果を見てもらったら、もう何を食べても良いと、指示が出たとのこと。
顕微鏡も、朝までその状態にしたままで、私にも見るようにとも、指示がありました。

私は、すぐに顕微鏡を覗き込みました。
「わっ!何じゃこりゃ!」
顕微鏡の視野いっぱいに、赤血球の塊がありました。こんなの見たことありませんでした。
しかし、すぐに私にも診断がつきました。尿路結石です。
この病気は、腎臓にできた小さな結石が、何かの拍子で流れ出し、膀胱まで落ちる間に、途中の尿管で引っかかったりすると、腎臓が腫れ、尿管を傷つけ、激痛や、血尿を生じます。
結石が、膀胱まで流れ落ちてしまえば、痛みはすぐに消えます。
わが国では、25人に一人が、一生の間に発症する、ポピュラーな疾患です。

この、尿路結石のことを、この病院では、「Nieren Stein」(ニーレン・シュタイン)と呼んでいました。
つまり、ドイツ語で、「腎臓の石」と言う意味です。
当然、私はまだこの単語を知りませんでした。

院長が、私にこういいました。
「どうやら、あの患者はニーレン・シュタインだったようですね。」
私は、こう聞き間違いをしてしまいました。

「えっ?入院したいんですか?(ニュウインシタインですか?)」
「そうそう」
院長は、聞き間違いに気がつきません。
周りのナースが、くすくす笑っていました。院長は、私に
「午前中に、君が指示を出した検査で、問題なければ、午後にでも退院させてください。
 それから、この病気は、まだ腎臓に石が残っていると再発すること、水分補給をしっかりすること、
 尿酸値の高い人は、石ができやすいので、食生活のことなど、いまから勉強して、
 きちんと指導をしてあげて下さい。」
そういって去っていきました。
私は、腑に落ちずに、
「入院したいのに、どうして、もう退院でいいの?」
などと、ぶつぶつ言いながら、その日、一日を悶々と過ごしました。

その後、幾度となく、尿路結石の患者さんに遭遇しましたが、その都度、この病院のナースたちは、私に耳元でささやきかけるのでした。
「先生、ニュウインシタインじゃないの?」

このいじめ?は、私がこの病院を去るまで続きました。
ひょっとすると、今でも語り草になっているかも・・・・恥ずかしい。

投稿者 morita1967 : 14:16 | コメント (0)

2009年09月29日

研修医シリーズ 藤井君、腹ぐらい触りたまえ!?

今回のお話は、1年目の内科研修医、藤井(たぶん仮名)先生を中心としたお話です。

藤井先生は、私と同い年です。教師を目指し、教育学部に入学した後、医師を志し、猛勉強の末、見事国立大医学部に入学を果たした、たいへんな努力家です。
体格もよく、お酒も好きで、性格も明るく、少し抜けたところもありましたが、決して悪い人ではありません。
ただ、医師になったときには、かなり年を食っていたのと、少し自己中もしくはKYの性格も災いしてか、先輩の内科医から、煙たがられ、ろくに指導もしてもらえず、放し飼い状態で、研修を送っていました。

私とは、年が同じだったのと、家も近かったので、公私とも仲良くしていました。
IVHの挿入や、大腸内視鏡などは、私が教えてあげました。
ただ、私の出身大学と、藤井先生の大学の関係は、老舗大学と、新設医大。あまり仲が良いとはいえません。このときも、外科の医師が、内科の研修医を指導することを、内科部長は快く思っては、いませんでした。

ある日、藤井先生の受け持ちの患者さんが、口から食事を取れなくなりました。この患者に、PEG(胃カメラを使って、お腹から直接胃に管を留置し、ここから、流動食を胃に流し込む処置)をしたいが、自分はやったことがないので、森多先生、手伝ってくださいよと、頼まれました。
私は、快く承知し、術前の処置、当日の手順、用意するもの、関係部署への連絡など、教えてあげました。当日も、指導してやることを約束してしまいました。ついうっかりと。

PEGの当日、私は、この患者は内科の患者なので、自分はあくまでも、オブザーバーのつもりでした。内視鏡処置室にも、少し遅れて到着しました。 しかし、そこには、なぜだか多くのギャラリー。部屋に張り詰めた異様な緊張感、部屋の中央のベッドの上には、PEGを受ける患者さん、その両脇には、青筋を立てた内科部長と、凍り付いてしまった藤井先生が、向かい合っていました。
みんなの視線が、遅れて到着した私に注がれました。内科部長が私に向かって言い放ちました。
「胃はあるんだろうな?」
なんだと?いかに医師としては大先輩とはいえ、他の医局の医師に向かって、なんとぞんざいな態度だ。ムカッときましたが、目をやった壁のホワイトボードには、『執刀医(森多Dr)』の文字。しまった。はめられた。

実は、藤井先生は、内科のだれにも相談せず、(できなかったのでしょう)処置の予約を入れていました。私も、当然、内科の先輩医師がこの処置を行うものだと、考えていました。しかし、この処置の責任者は私になっていました。
内科部長は、内視鏡室のナースからこの情報を聞きつけていました。この患者が、胃を切り取る手術を受けていたことも知っていました。

この時、初めてこの患者さんを診ました。お腹には、縦に伸びる大きな傷跡。
藤井先生は、こんな単純な診察(患者のお腹を触る)もしない、要するに基本ができていない医師でした。(かつての私以下の状態)
少し冷静さを取り戻した内科部長は私に問いました。
「この傷は、胃を切除した傷ですよね?(外科医ならわかるだろ!)」
「ええ、胆石の手術ではありません。間違いなく胃切除です。」
「胃がなきゃ、PEGはできんだろう?」
こう言って、内科部長は、うすら笑いを浮かべながら、内視鏡室を後にしました。私は、彼の背中に向かい、こう言いました。
「有るか無いか、見てみないと、先には進みませんよ。」

「さあ、藤井先生!はじめるぞ!」まずは、フリーズしてしまった、藤井先生を融かしました。
最初に私が、胃カメラを入れました。幸いに、胃は1/3が残っていました。
「よし、いけるぞ!」
藤井先生にバトンタッチをし、よしそこだ、針を刺せ、引っ張れ、よーし、思い切って引き抜け!などと指示を出しながら、無事、PEGは成功しました。

ギャラリーから、拍手が起こりました。
藤井先生も、達成感で満ち溢れた表情でした。
「PEGが完成し、使えるようになるまでは、1週間だ。毎日、観察するんだぞ!」
「森多先生!ありがとうございました。!」

医局に引き上げる廊下で、私は、自分の研修医1年目の出来事を思い出していました。
まるで、勝ち名乗りを受け、花道を下がる高見盛のように、ふんぞり返って、私の先を歩く藤井先生の背中をたたき、
「藤井君、患者の腹ぐらい、触りたまえ!」
と、心の中で言いたい気分でした。

その後、藤井先生がどうなったかは、まったくわかりません。
 
『技術は、伝承されるものです。』

大学の卒後、2~3年で美容外科になり、そのまま開業した医師などに、
名医などいるはずはなく、・・・・ いらんことを言いました。

投稿者 morita1967 : 15:27 | コメント (1)

2009年09月23日

研修医シリーズ 『森多君、腹ぐらい触りたまえ!!』

今回のお話は、私の研修医、一年目に経験した、失敗談です。

この経験から得られた教訓は、いかに、ルーティン・ワークが大切か、と言うことです。
人はえてして、忙しいときや、他に気をとられているときに、普段はきちんと行っている手順を、無意識のうちに、省略してしまうことがあります。
たとえ、一つ一つは、小さなミスでも、それらが偶然に重なったときに、重大な事故につながります。

外科の研修期間は、ご存知のように、超多忙です。

毎日の業務を終えた後に、標本整理、カルテ整理、次の日の準備、指導医から出される宿題のための勉強などをします。
午後10時より早く帰宅できることはまれで、週に2~3日は、当直もこなします。

そんな生活に忙殺されていたある日、この患者さんは、午後の外来時間の、終了間際に、来院されました。
通常、初診の患者を、一年目の研修医が診察することはありません。
この日は、既に、外来は一旦終了し、担当の医師が、帰宅の準備に入っていました。
こういったときに、一番下の医師が、都合よく呼び出されるのは、よくあることでした。

この患者さんは、背筋をピンと伸ばし、かくしゃくとした老人で、とても重症の患者さんには見えませんでした。
実は、この老人は、20年前に、この病院で、胃切除の手術を受けていたのですが、帰宅を急いだ事務員が、以前のカルテを探してくる作業を怠り、同様に、問診をしたナースも、この老人の、一見、軽症に見える態度にだまされ、問診を簡単に済ませてしまいました。
机の上には、新品のカルテと、腹痛の項目に丸が付いただけの、問診表が置かれていました。


とりあえず、症状を聞くと、食事がつかえる、とのことでした。
私もついうっかりしてしまい、目の前の患者を、ろくに診察もせず、
「それでは、一度、胃カメラの検査をしましょう。それから、血液検査も。今日は胃薬を出しておきますから、今日はお帰りになって結構ですよ。」と、この老人を帰宅させてしまいました。

このときの、研修医の心境としては、「どうせ、胃カメラに来院するから、そのときの担当の先輩医師に、任せたほうが、この患者のためにも、良い判断をした。」といった感じでしょうか。

翌日、検査室から連絡が入りました。
「昨日の、最後の患者さんですが、通常は2桁の主要マーカーが、6500もあります。」とのことでした。
私は、すぐに、ただ事ではないことに気がつき、「しまった。」と思いました。その日のうちに、老人と連絡を取り、すぐに入院してもらうことにしました。

数日後、いつもの生活に忙殺され、この事件のことは、すっかり忘れてしまっていた私に、ナースから連絡が入りました。
病棟を回診中だった、この病院の院長から、すぐに来いと、呼び出しがかかっている。とのことでした。
何だろうと、あれこれ考えながら、院長が回診中の病室に駆けつけました。

病室のベッドの上には、その朝入院した、あの老人が、数日前とは、全く違う、憔悴しきった様子で、力なく横たわっていました。右手を、だるそうに上げ、私に挨拶をしました。
院長の手元には、20年前のカルテも、きちんと用意されていました。
「見たまえ、森多君。」 院長は、老人のお腹を指差しました。
そこには、胃切除のときにできた大きな傷と、みぞおちに、見ただけで分かる、握りこぶし大の、見るからに硬そうなしこりがありました。

実は、この老人は、自分の体の変調が、ただ事ではなく、死期が近いことも、既に自覚していました。
残された時間を、普段どおりの生活をしながら過ごし、最期も自宅で迎えたいと、そう考えていました。
「病院に行くと、そのまま入院となり、帰宅できないまま、病室で最期を迎えるのはいやだ。」そう考えて、何事もないように、痛みを我慢しながら生活し、受診せずにいたのでした。

あの日は、かなり以前から、老人の体の異変に気が付いていた家族が、無理やり連れてきたのでした。

院長は、怒っていました。
「君は、お腹が痛いといってきた患者を、ろくに診察もしないで、胃薬だけ渡して帰し、胃のない患者に、胃カメラをしようとしたのか?」
「あのまんま帰して、自宅で倒れたりしたら、どうなると思っていたのか!」
それから、この回のタイトル「森多君、腹ぐらい触りたまえ!!」と、つながっていったのでした。
顔から火が出るほど、恥ずかしく、自分を情けなく思いました。

これは、言い訳になりますが、結果的には、すぐに入院の措置をとったからよかったのですが、
あの時、事務員、ナース、医師のうち、誰か一人だけでも、面倒くさがらずに、きちんと、当たり前のルーティン・ワークを行っていさえすれば、このような事は起こらなかった筈です。

この老人は、検査の結果、既に手の施しようのない、肝臓がんでした。
食事が通るようにする手術と、まもなく症状が出てくるであろう黄疸に備えて、胆管と十二指腸をつなぎ合わせるだけの処置を施し、一旦は退院できるまでに、体力が回復しました。

その後、この老人は、数ヶ月、自宅で、家族とともに、畑仕事や、大好きな牛の世話をしながら過ごし、再入院となった翌日、家族に見守られて、静かに息を引き取りました。

たとえ一つ一つは、小さなミスでも、偶然が重なると、重大な事故につながります。

私は、今でも時々、院長に怒鳴られた、あの言葉を思い出します。
こんなことを、研修医の時期に体験でき、早く気が付いたことを、幸運だったとさえ思います。

ついつい、いい加減になりそうな日々を反省し、自戒する毎日を送っています。

投稿者 morita1967 : 11:54 | コメント (0)